かじかのつぶやき

絵を描き 写真を撮り 本を読み 猫と遊ぶ ときどきお仕事な日々。。。

おやすみなさい

父が旅立ちました。


よりによって、
前回の記事を書いた翌日に。
2月5日現在、父は健在だと書いた翌日に逝くなんて、

反則です。

あの記事を書いたのが虫の知らせのようで、
書かなければよかったと、後悔しきり。



ブログを書いた日の夜、

父はいつもと変わらずに夕食をとりました。
いつもなら夕食後はさっさと寝てしまうのですが、その日に限って口腔ケアをしてから寝る準備をしました。

ベッドに横たわると、世話をする母に、
「おやすみなさい」と父は言いました。
普段、お礼や挨拶なんて言わない、ぶっきらぼうな父が、初めて母におやすみを言ったもんだから、母は思わず、
「え?何か言った?」と聞き直しました。父はいつもと変わらずぶっきらぼうに、

「お休みなさいって言ったんだよ!」と言いました。


母は驚き「そりゃそりゃ、おやすみなさいよ。良い夢見なさいまし」と声をかけ、寝室のドアを閉めました。

 

結局それが、
母への最後の言葉となりました。


その後、
夜も更けてから再び起き上がった父は呼び出しチャイムを鳴らし、やって来た加とさんにしばらく背中をさすってもらった後、
「部屋が暖かいから、エアコンは切るよ。また寒くなったら点けよう」と言って、エアコンのリモコンを手に持って横になりました。
「いつもすまないね」

加とさんにかけた言葉が、父の生前最後の一言になりました。





明けて6日早朝。
前夜の様子が、どうも気になって仕方なかった加とさんが寝室を覗いてみると、
そこにはエアコンのリモコンを手に持った状態で、ベッドに倒れ込んだ父が。


身体はまだ温かく、熟睡している時の顔のままでした。

「お父さん!お父さん!お父さん!!おとうさーん!!!」
家族が叫んで顔をペチペチ叩き、肩をゆすっても、ピクリとも動かない。
ちょっと口を開けて、クークー寝ている時と変わらない。
でも寝息は聞こえない。どんなに叫んでも、目を開けてくれない。




行きつけの病院で死亡確認されたのは午前9時ちょうど。
通院の時にいつもお世話になった看護師さんが父の身体をきれいにして下さいました。
15年の長きにわたり、父に寄り添ってくれた人達です。涙ぐんでお悔やみの言葉をかけて下さいました。


ああ。
もう、起き上がらないのね。
私を怒る声は、もう聞けないのね。
少し開いていた口は閉じられ、瞑った目は永遠に開く事はない。
つい昨日。
昨日まで、
散々文句を言い合っていたのに。
感謝の言葉ぐらい言っても良いもんじゃねーの?と、
突っかかったのは、ほんの3日前なのに。
聞こえないふりをして、そっぽを向いていた父。
もう、文句もありがとうも言わない、言い合えない。

その現実は私にとって耐えがたく、
突然幕を下ろした父の人生の最後の瞬間を、きちんと看取れなかった後悔やら、酷い事を言った懺悔やらが一気に押し寄せてきて、ただただ呆然と立ち尽くすばかりでした。


こんなに突然逝っちゃうなんて。

足元がグラグラする。
地面が地震でもないのに揺れる。

 

だめだ。しっかりしろ、アタシ!

ボウッとしているばかりじゃいかん。
お葬式だ。送り出さなきゃ。旅立ちを見送らなければ。

葬儀社に連絡し、それからがもうね、バタバタバタバタ・・・・

 



喪主は、私が務めました。

職場も一緒で、ケンカしつつも長い時間を共に過ごしました。
ハタチそこそこで現場に連れて行かれ、元請け会社に怒鳴られ、下請け会社に文句言われ、半べそで父の後を追いかけた30余年。

図面が引けるってだけで父の所でバイトをし、そこからそのまま社員になって助手を務め、気がつけば父の業務を全部引き継いで(というか丸投げされて)父の机で作業している私。

こんなはずじゃなかったのに・・・と思いながらも、父譲りの向こうっ気の強さだけで、色んなハードルを飛び越えてきました。
本当は「もう無理!キャパオーバー!!」と叫びたいのですが、叫んだところで、
「しょーがねえな。俺がやるよ」とは、もう言ってくれない。

娘に全てまかせておいて、自分は福祉の世界へと転身した父。

なんだよもー!ヽ(`Д´)ノ 私だってやりたい事があったのに!
・・・と、ブツブツ文句垂れながら、業務を引き継いでおりました。


そんな私に、父を見送る日が来るとは。


遺影は、
大分前のお正月に、母と妹、父の3人の写真を撮った時の一枚を選びました。

おしゃれだった父がお気に入りのスーツを着て、口をへの字にした仏頂面だったから、たまにはニコニコしてみろと思いながらシャッターを切った一枚です。

住職の読経を聞きながら遺影を見つめていたら、ふいに気づきました。



ああ。
この時の父は、
私を見つめていたんだ。
カメラを構える私を見ていたんだ。

そして今も、父は、私を見ているんだね。。。

遺影の父は、目元も口元も穏やかで心なしか微笑んでいるようにも見えます。
こんな穏やかな顔をする事は滅多になかったのに。

父は私を見つめて、
「まぁ、後は頼むぜ、なんとかならぁ」と言っているようでした。

「米寿までは生きてえなあ」
その願いは叶わなかったけど、仕事に趣味に、全力で駆け抜けた85年の生涯は、楽しくもあり、やりがいのある日々だったと思います。

きっと今頃、先だった友人達と再会して、大好きなお酒を酌み交わしているのかも。

猫好きで、3匹の猫達を娘以上に(笑)可愛がってた父。
なかでもふう太はお気に入りでした。

元気だった頃に参列した、あるお通夜の席では、
「おう、俺はもう帰るぜ。子供が3匹待ってるからよ」と言って傍らにいた人を笑わせていた父。子供3匹てww

社福法人を立ち上げ、施設の運営やグループホームの設立にも奔走していた父。
利用者さんのご家族の女性が父に「私ももう60になったわよ~」と言ったら、
「おぉ、若いなぁ。59にしか見えねえぜ」と言って笑わしていた父。
それ全然褒めてないしww

7年前の2月の大雪では、
カーポートの屋根に積もった雪おろしが元で、腰椎の圧迫骨折をした父は、市内の整形外科に入院、そこで入院していたオバチャン達とすぐ仲良くなると、花札を持ち込んでコイコイやってたっけ。オバチャン達は退院する父を見送ってくれたっけ。
(オバチャン達とは相性がいいww)

カメラが大好きだった。

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父の愛用していたNikonS3。手元に置きたかったのに、古物商に売ってしまった。

その趣味は幼い私に受け継がれ、私は写真を撮るのが好きな子に育ちました。

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父のカメラはおもちゃでした。
ローンを組んで買ったカメラを持ち出して地面に落としちゃった事も・・・

初めて自分で買ったNikonも、父の助言で使いこなせる様になりました。


そして、
私のNikonで撮った、在りし日の家族写真が遺影となりました。


あっけなく逝ってしまったから、遺言もなければエンディングノートも無い。
遺品整理が超大変だよまったく・・・


何を言っても、もう届かない。

泣こうとしても、まだ泣けない。

ふいに悲しくなり、涙が目のきわまでせり上がってくるんだけど、
あふれる事なく、引っ込んでしまう。

いつか思う存分泣けた時こそ、私の中で色々納得出来て、区切りが付けられるのかもしれない。

それがいつになるのか。私には解らないけれど。


今、私は淡々と、色んな整理作業に追われています。
母を支えながら。
悲しいも寂しいも後悔も全て置き去りにして。




お父さん。私をこの世に生み出してくれてありがとう。
あなたの娘は頑張りますよ。
見守っていて下さいね。


あと何十年かしたら、私もそちらに行きますが、
その時、出来れば
「おう。よく頑張ったじゃねーか」ぐらいは言って下さいよ。
そしたら「あの時はもう本当に大変だったんだから!」と文句言うつもりです。

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池の横で。多分父は32歳で、私が4歳。多分だけど。

おやすみなさい。