ときどきミヤコ探検
先月の話なんだけど、絵の展覧会に行って来た。
年に一回、行くか行かないか、な、六本木にある美術館まで。
京都画壇を代表する日本画家、木島 櫻谷(このしま おうこく 1877~1938)の回顧展が開催されていて、たまたまその特集番組をテレビで観た私は、
「こんなスゴイ人がいたのね!」
と、初めてお名前と作品を知り、実際に鑑賞しようと思い立ち、年に一回行くかいかないかな六本木を目指したのだよ。
乗り換え案内アプリを駆使してw
その美術館てのは、ココ↓
sen-oku.or.jp
六本木と言うと、
10数年前のちょうど今ごろ、六本木ヒルズのイベント(確か金魚のなんとか)に誘われて行ってみたのを思い出します。ヒルズの展望台から見た東京タワーの「赤」が強く記憶に残ってます。
テレビで放映されたせいか、館の入り口は入場制限がかかってた。
というか、チケット販売窓口への入場制限で、行列はそこまで。
artexhibition.jp木島画伯が残した膨大な写生帖にまず驚く。
スケッチをさほどしない自分、巧くならない訳よね(猛省)。
代表作として人気の「寒月」は残念ながら展示期間外だった為、観られず。
いつか京都まで行って、実物を間近で観たい!と思ったわ。
密度の濃い作品群に圧倒されながら観賞を終え、
併設のカフェで一息。窓の向こうの風景も素敵。
館を出ると、目の前はスウェーデン大使館。
その脇には、蝉時雨降る緑濃い歩道。
山奥で暮らしていると、
見慣れた風景をずっと見ている訳で、
たまにはいつもと違う光景を見ないと、
何というか、そのまま埋もれてしまう気がして、時々焦る。
そういう意味でも、この日、ここに来られて本当に良かった。
絵を観ると言う目的以上のものを得た気がした。
ときどき、ミヤコは探検した方がいいね。
また、出かけよう。
音の捜し物
ここ半年、
いやもっと前からだろうか、
とあるクラシックの名曲のタイトルをずっと思い出そうと頭抱えてた。
どうやっても曲名が出てこなくて、でも旋律は解っていて、
Googleの鼻歌検索と言うのを初めて試したんだけど、
私が音痴なのか鼻歌が下手くそなのか、
一曲もヒットしなかった。
検索アプリもあるようだけど、
そこまでして検索しなくても・・・な気もして、
結局解らぬまま、脳内では軽快なメロディを再生し続けていた。
(ああこのメロディ。これ好きなんだけど名前が出てこないから、YouTubeで検索しようにも出来んのよ・・・)
そもそも音楽関係、私は疎いのだ。
古今東西の名曲は右耳から入って左耳から抜けていった。
心を込めて聴き入る、なんて事をしてこなかったから、
音楽室の壁に並ぶ巨匠の肖像画で、これはあの人、と解るのは、
ベートーヴェンとバッハぐらいだった←髪型のインパクトで覚えてただけ
そうこうしていたら、ある日突然、曲名が解ってしまった。
朝、テレビを点けたら偶然クラシックの名曲を紹介していて、
まさに、その曲だった。
youtu.be
「いふうどうどう、いふうどうどうだよそうだよエルガーだよもおおおお」
しばしテレビの前で悶絶した。
なんで今まで思い出せんかったんだ!アタシってば!
私は元から活発な人ではないせいか、
好きな音楽の曲調は軽快で躍動感に満ちたものが好きだ。
何事もなければ、とことん何もしないでジッとしている私を奮い立たせたり、動く力をもらうのには、もの悲しくも美しいピアノの調べより、ドンジャカドンジャカと賑やかに盛り上げて欲しいのだ。
クラシックでなくても、
大河ドラマのテーマソングなんて結構大好き♪
youtu.be
風林火山のテーマを耳に届けつつ、
そろそろやらねばならない絵の世界のあれこれに目を向けないと。
威風堂々と、進んでいきたいものですな!
刑事さんに出会った日
小さい頃、
TVで放映していたドラマと言うと、
ほのぼのしたホームドラマと時代劇、それと刑事ドラマを思い出す 。
ホームドラマには、
大体しっかり者の「お母さん」が出てきて、
ちょっと頼りない「お父さん」や、ウッカリ者のお手伝いさん、
やたら生意気な「お兄ちゃん」とか「お姉ちゃん」なんかが家族にいる。
時代劇と言うと、
実在した有名人の生涯を語ったり(大河ドラマ的な)、
架空の「正義のヒーロー」的なキャラ(ファブルっぽい仕事人とかお殿様が桜吹雪のタトゥーあるとか)が、悪いヤツをこらしめてた。
そして、刑事ドラマは、
現実にはあり得ない様な「銃撃戦」と「カーチェイス」が毎週起こる!
毎週よ!
毎週どこかでバンバン「撃ち合い」よ!
日本の治安はどうなってるの!?
簡単に引き金引いて、それ、正当防衛とか引っかかるでしょ!
・・・と、今観たらツッコミを入れたくなるような展開で、
しかもそれなりに視聴率は高くて、俳優さん達も皆様本当に人気が「爆発」してた。
ああいう演出はTVの中だけの話で、
刑事さんも、実際は「公務員」として日々の業務を淡々とこなされているのだろうと思っていた。見た目も、普通にスーツとか動きやすい格好で、革ジャンだのジーンズとか、あれはTVの中での「おはなし」だと思っていた。
その日まではね。
今から37年前の、1986年。
秋も深まった11月半ばの事だった。
私は、勤め先の女性従業員さん(おばちゃん)達と、秋の慰安旅行(日帰り)に出かけた。
行き先は県内でも有名な紅葉スポットで、私は初めて買った一眼レフカメラを肩にさげ、替えのレンズや偏光フィルターなんかも装備して、赤や黄色に染まる渓谷を次々と撮影していた。
今思い出しても、あの日、あの場所で撮った紅葉が一番キレイだと思ってる。
渓谷の流れは深く、下に流れる川を眺めるとちょっと怖いくらいだったが、その日はあちこちで砂防工事をしていて、正直足元から下の風景は全く撮影に向かなかった。
大がかりな工事で、川は作業道が造られて建設機械が何台も動き、ダンプもせわしなく動いていた。道の崖側は建設会社の名前入りバリケードが隙間なく並び、私達の乗ったワゴン車は最徐行で、鮮やかに染まる山間の道を移動した。
おばちゃん達との賑やかで小さな旅は日暮れと共に終わり、私達は楽しい思い出と沢山のネガフィルムを抱えて、職場に戻って来たのだった。
それから数日経った、とある土曜日。
17時ともなるともう外は真っ暗で、私は職場で帰り支度をしていたんだが、事務所前に見覚えのないワゴン車が停まったのが見え、手を止めた。
ドアが開き、見知らぬ2人の男が降りてきて、事務所の前庭にいた伯父(当時は社長)と父(当時は専務)になにやら話しかけてきた。何を喋っているのか、細かい部分は聞き取れなかったが、軽い調子で
「どうでしょうねえ?お使いになりませんか?」
などと聞いている。伯父も父も、
「いやぁ、うちじゃあ現場では使わないんだよ」
と言って手を横に振っていた。
その後も何か話し込んでいた様子だったが、何か決まったのか、2人組の男はワゴン車に戻り、なにやら重たい、四角い機械をおろし、事務所の玄関脇まで持ってきた。
それは電気溶接機で、その名の通り「電気で溶接する機械」の事(ざっくりだな)。
我が社は造園・土木系なので、溶接する事はほぼ無い。伯父も父もそう話していた。
2人組のうち、年長の男は饒舌で、営業トークとか得意そうだったが、もう一人の男はとても若くて、ハタチかその下、私より年下だと思った。そしてなにやらおどおどしていた。
2人は機械を玄関先に置くと、じゃあまた!と去っていった。
私「どうすんのこれ?」
父「借金のかたに取り上げたんだと。うちで30万で買って欲しいって」
伯父「うちじゃあ用はねえなあ」
父「他をあたるんで、明日取りに来るから今日はここに置いといてくれってさ」
私「明日?日曜じゃん!」
伯父「俺がいるよ。どうせ出る予定だったし」
私はその溶接機を眺めてみた。
新品ではなかったが、機械の側面に貼られた社名シールに目が釘付けとなった。
「◎◎建設」
それは、数日前に某市の渓谷で大規模な砂防工事をしていた建設会社と同じ名前なのだ。
同じ会社・・・?
あの会社の事?
そりゃおかしい。
おそらく億単位であろう、大規模公共工事を受注出来るような会社が、果たして数十万の電気溶接機を借金のかたに取られるだろうか?
私はすぐ父にその事を話した。
父も伯父も「まさかw」と笑い、間違えたんじゃないか?と言ったが、いや確かにこの会社名だったよ!と食い下がった。
今と違い、インターネットなど無いから調べるには電話して聞くしかないが、解っているのは社名だけで住所も解らず、あの渓谷のある村の電話番号が載っている電話帳など職場には無かった。
新聞や電話帳では探せなかったので、父が渓谷近くに住む知人に週明けにも電話して聞いてみる事になり、のどかな田舎の土曜の夜は更けていった。
そして翌日曜日。
朝早く、2人は同じワゴン車でやってきた。
留守番で出勤していた伯父に向かって「手間かけてすんませんでした」と何度も頭をさげて機械を引き取って行ったそうだ。
うーん。
本当に借金のかた、なんだろうか・・・
うーん・・・
明けて月曜日。
父は知人に電話し「◎◎建設って知ってるか?」と訊いてみた。
知人「そりゃーこっちじゃ誰でも知ってるデカい会社だよー。そうそう、あの渓谷の工事もやってるよ。・・・電溶を?借金?まっさか、そんな訳ないさぁw」
さすがに父もおかしいと気づいた。
知人も変だと思ったようで、◎◎建設に連絡して電気溶接機の件を聞いてみると言ってくれた。
そしてすぐに、返事が来た。
知人「あれは盗品だよ!盗まれたそうだ!警察にも連絡したってさ!」
そこからが慌ただしかった。
父が通報すると、その日の午後には管轄の警察署から、事情を聞く為に刑事さんがやって来た。
事務所の玄関に颯爽と現れたのはスーツ姿の40代後半とおぼしき柔和な顔立ちのオジサンと、180cm超えの長身にパンチパーマ(と言うか昔流行った健太郎カットみたいな?)鋭い眼光に細い鼻筋、革ジャンに細身のジーンズ、足元はブーツ、ちょっとぶっきらぼうな挨拶の仕方なんかもう、もう、もう!
石※プロの方ですかあ!!!???
革ジャンの襟立てて、下にはグレーのタートルネックシャツって、
どうよ!どうよ!
刑事コスプレかよっ!
って言うぐらいの、コテコテな刑事さんが立っていたのだよ!
そのいでたちからすると、
覆面パトカーの助手席に箱乗りしてライフルぶっ放したりすると似合う・・・♡♡(妄想)
いやいやいやいや、
今回は、西部警察に出て来るような凶悪事件じゃございません。
ちいさい機械の盗難です(キッパリ)
その石※プロの、ちがう、某警察署の刑事さんは、
我が社の狭い応接間に置かれた古くて小さいソファに長身を縮めるように座り、調書を手書きで作成し始めた。
※昭和の出来事ですから、手書きです。
質問する40代スーツのオジサンは静かで柔和で、
時折ジョークを交えながら、私と父にあれこれと聞いてきた。そして、
(パラッ)「この男に、見覚えありますか?」
と、めくられた書類に貼った、2人の男の写真を見て、私と父は
「あー!」と叫んだ。
口のうまい年長の男が、むっつりとした顔で写っていた。
父「この男です!間違いない!借金のかたにって、言ってました」
父はコーフン気味にまくしたてたのち、隣の写真を見て、
父「あれ?こっちの子は・・・こんな顔だっけ?」
と、困った顔になった。
私も写真を見たが、暗闇でおどおどしていた若者の怯えた目は覚えているけれど、四角い印画紙に収まったうつろな目は、似ているようで別人の様にも思え・・・
40代オジサン(言い方)の話では、彼らは窃盗の常習犯だそう。
足取りは大体つかめているとの事で、追跡はもう始まっているとの事。
(脳内に西部警察のOPテーマが流れ始めた♪ ヘリで逃亡する車を追いかけ、ライフルを撃ち込むサングラス姿の渡哲也がまぶたに浮かんだ)
何ページにも及ぶ調書を書き終えた石※革ジャン刑事(まぜるな危険)は、腰を痛そうに伸ばしながら立ち上がり、40代スーツのオジサンと共に署に戻って行った。
気づけば外は真っ暗になっていた。
月日は流れ、
刑事さん登場のテンションがすっかり下がった頃、職場の電話が鳴った。
「ご無沙汰しております。△◇警察署の▲□です」
うわーっ!!革ジャンデカだ!!(呼び方w)
私「もっもしもし!おっお世話になっておりますっ!」
革「例の窃盗事件ですが、容疑者逮捕となり事件は解決いたしました。社長さんと専務さんのご協力なくして解決には至りませんでした。ありがとうございました。また改めてご挨拶に伺いますので、よろしくお伝えください」
私「え!あ!そ!それは!お、おめでとうございますっ!」
革「ありがとうございます~」
その数日後、
革ジャンデカは、可愛らしい包み紙の菓子折持参でご挨拶に再びお見えになった。
厳しい目つきの人だと思ったが、よく見れば穏やかな眼差し。そうだな、芸能人に例えると、吉川晃司さんかしらね。(さー皆さん、目を閉じて。短髪の吉川晃司さんにグレーのタートルネックシャツ、革ジャン(襟立て)にブラックジーンズ、つま先のとがったブーツを履いてるところを想像してみましょう!←それが革ジャンデカ!)
今はもう、すっかりお爺さんになられただろうなあ←想像させておいて落とすw
その後、
父は捜査に協力したと言う事で感謝状が贈られた。
それは今も額に入れて飾ってある。
父は友人知人が来訪すると、その感謝状を指さしながら、どや顔で「武勇伝」を語って聞かせていた。
そのたび、私はムッとしていた。
そもそも私があの会社のステッカーに気づいたから事件解決に繋がったってのに、感謝状の名前は父だけだ。
納得いかん!なんでじゃ!!
だがそれも、今となっては遠い日の思い出ばなしだ。
過ぎてしまえば、スリルとワクワクで、平凡だった日常が大分彩られた。
不謹慎かつ失礼ながら、面白い出来事だった。
あの日帰り旅行で訪れた渓谷は、
今も紅葉の穴場になっているが、私達が訪れた頃とは大分景色が変わっているらしい。
37年前に撮影した写真とネガは、押し入れにしまい込んだ後、どこかに紛失した。多分棄てちゃったんだろうなあ。
また見に行きたいな。
今度はデジタル一眼レフを持って。
亡き伯父と父の思い出と一緒に。
ウサギ狩りの夜
朝から、ぶるーだ。
昨夜、我が家の黒猫・Q太が、野ウサギを獲ってきた。
「わーーーーっ!!やめてえええ!!」
2階で加とさんが絶叫してるので、
「なに??どしたの!?」と階段下から訊くと、
「Q、ウサギ獲ってきたあ!!!!」
ま、また!?(゚Д゚;)
これで2羽目。
今回の子は大きい。オトナウサギだ。(;´Д`)
Qより2回りぐらい小さいけれど。
首筋をひと噛みだった。
ネコ科肉食獣のハンティングの王道を行くやり方だ。
可哀想に。2階に連れ込んだ時はもう、事切れていた。
「ご飯あげてるんだから獲って来ちゃダメでしょ!」
「100歩譲って、ネズミとモグラは許す!でもウサギと鳥は絶対にダメッ!!」
と、説教したところで何処吹く風。再び2階の窓から夜の闇に消えた。
(その後はハンティングは不成立で、明け方には戻って来た)
早朝。
戻って来たQ太が寝ている隙に、ウサギのお墓を作った。
庭の築山の脇に、スコップで穴を掘り、動かぬ小さな身体を横たえる。
ここには先代猫のふう太の獲物(ウサギ・ムササビ・ハト・ヒヨドリ他色々)も眠っているので、適当に穴を掘っちゃうと「ご遺体」を掘り起こす可能性がある。だから掘る場所は慎重になったわ。
埋葬したら、他の動物に荒らされないよう、重石を乗せておく。
加とさんと二人、合掌し、魂が安らかであるよう、祈った。
(ごめんねごめんねごめんねごめんね・・・)
それにしても、だ。
Q、すごいな・・・
我が家歴代猫で、一番狩猟本能に長けている。
去年は珍しいシマシマのヘビを捕ってきて、毒蛇かと思ってたじろいだが、シロマダラという大変珍しい日本のヘビだった。
山中の草むらをコソコソと移動するコジュケイを、一瞬の隙を突いて獲っちゃうし、モグラも一体何匹獲ったことか。
ウサギを獲るのだって、あの俊敏なウサギを追いかけて追い詰めて、一撃で仕留める。
足が速くなければ無理だ。
Q太は本当に足が速い。一本桜を一緒に見に行くと、草むらに入って獲物探しをしているので、置いて行くと「待ってえええ!」と鳴きながら全速力?で駆けてくる。
そのスピードをいつか計測したい。チーターほどじゃないけど相当な速さだ。
先代猫のふう太は、歴代猫ナンバーワンのケンカ上等!な猫だった。
白黒ハチワレ。保護した時からきれいな目をしていて、色鉛筆画家Mさんの画のモデルになった事もある。
よその猫としょっちゅう血だらけになる大げんかをしていて、亡くなるひと月前にもライバル猫とバトルを繰り広げていた。
彼にとって、オス猫はイコール「敵」だった。
メイとモモは、メスだったのでしぶしぶ家族の仲間入りを許したが、ふう太は最後まで仲良しにはならなかった。
もし、彼が今も健在だったら、
今、我が家のコタツでぬくぬくと丸まっている我が家歴代猫最大にして最弱のコタロウなどは、間違いなくふう太にボコボコにされて家から追い出されていた。
そして、我が家に二度と近づけなくなり、野良猫のまま山奥で短い生涯を終えたかもしれない。
Q太だって、きっとそうだったろう。
全身噛みつかれ傷だらけにされてなお、外に追い立てられて威嚇され、再び捨て猫に戻るしかなかったかもしれない。
そのくらい、オス猫が家に近寄るのを嫌った。
コタロウもQ太も、
捨てられてお腹空いて我が家に迷い込んだ猫だが、幸運だったのは、ふう太が召された後にやって来た事だ。
メイもモモも、時間はかかったが最終的にオス猫メンバーが増える事を容認した。
(ただし、モモは今もQ太を嫌っている)
コタロウは、以前Q太に突然取っ組み合いを仕掛けられ、それがトラウマになったのか、全く近寄ろうとしない。元々ケンカが苦手で、家に来た直後によその猫に背中を噛まれ、牙も3本折ってしまった。
一方、Q太は最近になって、先輩猫たちに取っ組み合いを仕掛けるのはNGだと、やっと理解し始めた。
茶の間で出くわしても、小さく鳴いて「何もしないから。あっち行くからいいでしょ」みたいな声とリアクションで離れていく。
まだ3歳ぐらいなのに色々忖度していて、ちょっと不憫に思ったので甘やかしたら・・・調子に乗ってハンティングしおった・・・怒
私は卯年生まれなので、ウサギは大好き。
「いつかはクラウン」じゃないけど(古い!)、
「いつかはウサギ飼い」と思っていたが、猫さまが居るうちはウサギは飼えないと思い知った。
我が家は父が幼い頃から、猫が長く飼われる家なので、きっと代替わりしてこの先も猫はずっと住み着くんだろうなと思う。
て事は、ウサギを飼う機会は訪れそうにないって事よね。
残念!
ウサギは絵に描くだけにしとこう。。
もう、獲らないでね(切実)。
あなたに似た人
もう、散々あちこちに書き散らしたので「またか」と言われそうなんだけど、
私はイルカさんに似ていると、たまに言われる事がある。
高校時代、美術部の顧問の先生から「かじかさんは美術部のイルカだからw」と笑いながら言われたのが最初で、それまで似ているだなんて自分自身、全く考えた事もなくて、大いに困惑したのを覚えている。
そして今現在も「似てるのかなあ・・・」と頭をひねる事は多々あるんだけれど、ギター弾けませんだの、カラオケでなごり雪は唄いませんだの、オーバーオールは履きませんだの、話のつなぎのネタに使っていたりするのだよ。
で、
そんな私なんだが、ある人に「そっくり」らしい。
ある人、ってのは、私も全く知らない人なのだ。
一度も会ったことがないし、この先も、会う事は100%無いだろう。
遠い昔の事なのだ。
いつの事だったか、記憶ももはやおぼろげで、
確か、1985年頃の秋だったと思う。
私は池袋PARCOの7階辺りにあった書店で平積み本を物色していた。
現在のPARCOはレストラン街になっているが、昔はサブカル本や洋書も豊富な本屋さんがあって、私は池袋に来ると必ず立ち寄るのが楽しみだった。
「ハヤカワさん!」
※実際にはなんて呼びかけられたのか忘れちゃったので、とりあえず仮名のハヤカワさんにしておきます。
すぐ近くで、私の顔を見ながら、満面の笑みで初老の男性が立っていた。
ちょいとラフな感じのブレザーとスラックス、薄めの白髪に丸顔で眼鏡の奥の小さな目は驚きと嬉しさが宿っていた。
(・・・?)
私は至近距離にいる別の誰かに呼びかけてるのだと思って、左右を見回したがそこには誰もいなくて私だけだった。
「夏の△%$#¥ゼミはお疲れさまでした!!暑かったねえ!」
(・・・・・・・???)
ポカーンと言う表現がピッタリなリアクションの私。
そのおじさんは怪訝な顔になり、なんとか大学のなんとかゼミのハヤカワさんですよね、と言うので、私はハッキリと、
「違います」
と申し上げた。すると彼は、
「え!!・・・あ、申し訳ない!あんまりそっくりだったので間違えました!本当にすみません!」
どこかの大学の先生と思われるその男性は、丁寧に頭を下げた。
私は「いえいえ~」とよそゆきスマイルでかわし、平積み本のエリアを離れた。
彼はそこに立ち尽くし、思いっきり困惑した顔で私を見送っていたんだが、なんと!週刊誌エリアに移動した私の後を追ってきた!
今だったら、そういうオジサンは【通報レベル】なのでしょうが、時代は昭和末期。そこまで私も考えなかったし、実際この先生は、当時の私にはアヤシい人には思えなかった。
先生「ごめんなさい!本当に?ホントにハヤカワさんじゃない?」
ビックリしたついでに笑ってしまい、
私は少し強めに「いいえ、違います!人違いです!」と言った。
先生は再び申し訳なさそうに、二度三度と頭を下げて詫びると、その場から立ち去っていった。
何度も首をかしげながら。。。
話はそこで終わりなんだが、
私はどうにも「ハヤカワさん」が気になってしまった。
大体、イルカに似てるって自分自身さほど思っていない身としては、イルカ以外の誰かに瓜二つと言われたら、どんだけ似てるのか確かめたいと思ってしまう訳さ。
だが、どこの誰だか全く解らない。
私を教え子と見間違えたこの先生も、おそらく存命ではないと思われ。
永遠に会う事はない、ハヤカワさん。
私と同世代でしょうから、色んな思い出を沢山作って、山あり谷あり人生イロイロな日々を送られているかもしれない。
暑かったあの日のゼミは、どんな内容だったのかな。
先生は普段どんな授業をなさるのかしらね。
あなたの大学生活はどんなだったのかしら。
40年近く経った今でも、知りたいなって、時々思う。
引き継いでいくこと。。
今さら今ごろ、
新年明けましておめでとうございます。
今年も拙いブログをよろしくお願い申し上げます<m(__)m>
いや、noteには記事書いてたのよ。
note.com
(ついついあちこちに書き場所を作るとネタが散らかるな)
年が明けたからと言って、
何か変わったとか終わったとか生まれたとか、
そういう事が一切無い、単に日付が変わっただけで日常が続いて行く年末年始を過ごす様になって何十年も経つ。
そういう当たり前の日々が一番幸せだと、爆撃を受ける国の映像を見る度に痛感する。
日本もいつかまた、空を赤く焦がす様な事が起こるのだろうか(不吉な事を)。
それはともかく、
一白水星な私にとって、色んな意味でグッタリした2022年が去っていった。
会社を辞めた事も大きかったが、その後の日常が全然落ち着かない日々の連続だったのも一白水星ゆえの事かなと思ったり。
こんな日常が、今年も来年も再来年も続いていくのかなと思うと、やっぱり私は働く場所を見つけた方が良いのかもしれないと、秋頃からずっと考えていた。
(ならさっさとハローワーク行ってこいよって話ですね、ええ)
仕事に追われていて、もっと好きな事がしたい、この人生でやるべき使命を見いだしたいとか、カッチョイイ事を考えてたけど、考えるだけじゃダメよね。そこから一歩踏み出さないと←そこで踏み出せてないワタシがいる。
一歩踏み出した訳じゃないけれど、今までと少し違うのは、
パステル画を再び描き始めた事だ。
この10数年はずっと色鉛筆画を描いて来たのだけれど、コロナ禍で色鉛筆画教室2つがお休みになってしまい、なら自作を量産出来るじゃないかと思ったものの、何というか、筆が走らないと言うか、、、←つまりやる気が起こらない
そんな時、
あるご婦人に言われた。
「パステル画、一緒に描きましょうよ」
その方、ここではHさんと表記しましょう。
Hさんは、今私がお世話になっている恵比寿の絵画教室が、東口の小さなビルの1階にあった頃に出会った方だった。
31年前の秋、私は「ケイコとマナブ」に出ていた絵画教室の無料体験レッスンを申し込んだ。
デッサンをやり直そうと思って、スケッチブックと鉛筆を携えて、教室の扉を開けた時、そこにいらしたのがHさんだった。
当時、すでに60代だったので、私はてっきり絵の先生だと思って挨拶したら、
Hさんは生徒さんの一人だった。
私「この教室に通われて長いのですか?」
H「そうねえ。10何年経つかしらねえ」
穏やかで上品な佇まいに(さすが都会のご婦人は違うな)などと思ったもんだった。
やがて先生がお見えになり、他の生徒さんも次々来られて(8割が私よりずっと年上のご婦人)和やかな空気と静かな時間の流れの居心地良さに惹かれながら、鉛筆デッサンのレッスンが始まった。
生徒の皆さんはパステル画や油彩画を制作されていて、気がつけばいつしか私もパステル画を描くようになり、公募展にも出品して、なんどか賞を頂いた。
その後、色鉛筆画に移行してからも通い続け、気づけば31年が経過。
私とHさんは、ご一緒した時間が一番長いお仲間同士になっていた。
コロナ禍となり、しばらくお休みになってしまった教室が再開した時、
Hさんは90歳を過ぎて益々お元気だった。
Hさんは私に「またパステル画描きましょうよ。教えるのも良いけど、自分の絵を沢山描いた方が良いわ」と度々おっしゃっていた。
パステル画から離れて20年近い。もはやどう描くのかもおぼつかない。
どうしたものかと思っていたが、意を決して再びパステルを手に取った。
その事を一番喜んでくださったのがHさんだったが、別れは突然訪れた。
昨春、転倒して大腿骨を骨折し、急遽入院された。
数ヶ月の入院とリハビリにより、杖をついて歩けるところまで快復したが、
食欲が落ち、内臓の検査をしたところ、進行した癌が見つかった。
それからまもなく、お正月を迎える事なく旅立たれた。
「パステル画描きましょうよ」
Hさんの言葉がずっと脳裏に響く。
本当にお元気な方だったから、復帰されたらパステル画を一緒に描けると思っていた。
家の机の引き出しには、沢山の手紙。筆まめな方だった。
優しい言葉と柔和な笑顔。若かりし頃は美人で評判だったそう。
もう会えない。
そして私はパステル画を描き続けている。
先生は容赦なくダメ出しの嵐だ。
色鉛筆とパステル、似て非なる画材の描き分けに苦労しつつ、再スタートだと思って色を置く。
花を描くのがもっとも難しく、バラやユリの花が得意だったHさんに語りかけながら手を動かす。
私(Hさん、描けません。どうしよう)
H(大丈夫よ。楽しめばいいのよ)笑顔の彼女が脳裏に浮かぶ。
楽しめない。苦しい。
H(好きなように塗ってみればいいのよ)
悪戦苦闘の末、どうにか描き終える。
Hさんがニコニコしながら、教室の端っこで私を見守っている。
(大丈夫よ。Kさんなら描けるわよ)
前回、S先生に「あなた、絵が変わったわね。お上手だわ。さすがね」
と、やっと花丸印をもらった(多分)。
美しいパステル画を数多く遺されたHさんに、私はまだ遠く及ばない。
でも、引き継いでいく事で、少しでも近づけるかなと思っている。
それまで、また先生から叱咤の嵐かなー(;´Д`)
でも頑張ろう。
私なら描ける、はず。はず。
別れの予感
私はジムニーに乗っている。
少し前にフルモデルチェンジした、ちょっと四角い新ジムニーの一つ前の型で、私にとっては3代目であり、乗り始めて7年になる。
初代は昭和63年(1988年)。
それまで2ストロークだったジムニーが4ストローク仕様になり、話題になった型。
インタークーラーターボの車に初めて乗ったもんだから、前に乗ってた車と同じ調子でアクセルを踏んだらいきなりロケットスタート!
「ひえええええ!!」慌てて今度はブレーキを踏んで急停車&エンスト。
ジムニーデビューの日は散々だった。
5年後に2代目に乗り換え、自身初のAT車。
オートマってこんなに便利なのね!(感激)
クラッチが無いのって、なんて楽なの!(感涙)
がしかし、
ジムニーに限って言えば、
林道や雪道、アイスバーンを走行する機会が多かった私には、マニュアルの方が色々都合が良いんだなってのは、2代目で初めての冬を迎えた時に気づいたのだった。
2代目ジムニーは8年乗った。
またいつか、縁あって3代目を迎える時が来たら、その時はまたマニュアル車にしようと思った。
そしてその縁は14年後に再び結ばれ、
初代からずいぶんと進化して乗りやすくなった3代目に出会う。
マニュアル車に乗るのは20数年ぶりで、納車の日、坂道発進の手順をすっかり忘れて、エンスト&後ろに盛大に下がると言う恐ろしいミス。後ろに車が一台も無くて良かったよ・・・
そして7年。
今でも時折、私が最初に乗っていた初代や2代目ジムニーを見かける。
というか、2ストジムニーも普通に走っていて、長く乗れる車なんだなと思っていた。
だから、まだまだ乗れる、ずっと相棒だわよ・・・と、思って疑わなかった。
走行距離が9万キロを超えた辺りで、それは起きた。
真っ直ぐな道路を55km/hぐらいで走っていた時の事。
舗装の継ぎ目の段差を越したところだった。
突然、ハンドルが猛烈な勢いで揺れ始めた。
ガクガクガクガク!!!
「わっ・・・わああああああ!!!」
一体何が起きたのか。
私は必死でハンドルを握って動かないようにするのだが、激しい振動は収まらない。
10秒ほど激しく揺れただろうか。ふいに振動はやみ、その後は普通の走行が戻ってきた。
あまりに突然で、心臓バクバク。ハンドルのガタガタは止まったけれど、身体がガタガタ震えてる。
脇道に入って車を停め、何かが車の下部に挟まってしまったのではと身をかがめて確認したが、何もない。タイヤの空気も問題ない。
あれは一体何だったんだろう・・・?
その日は傷めた膝の治療で接骨院に行く予定だったのだが、脇道でしばし考え、そのまま予定通り接骨院に向かった。
途中でまたアレが起きたらと思うと恐ろしかったけど、結局それは1度きりで、私は無事に用事を済ませて帰宅した。
一度、診てもらおうと思いつつ、その後全く何も起こらなかったのでついつい後回しになり、数日後、加とさんの運転で買い物に出かけた際、再びそれは起きた。
加「おおおお!!何だこれ!」
ハンドルを持つ加とさんの手まで震えてる。10秒も経たぬうちにそれは消えた。
加とさんには、最初のガタガタが起きた時に話しておいたのだが、
加「うーん。何だろう?」
全く見当が付かないと言った。
加とさん自身もあのハンドルガタガタを経験し、これは一刻も早く自動車屋さんに診てもらった方が良い!と言う結論で、翌日、長くお世話になってる自動車屋さんに電話した。
「ジムニーがちょっとおかしいんです。突然ハンドルがガタガタ揺れ出して・・・」
と言うと、電話の向こうの社長さんは「ああー。はいはい・・・」と何か察した様子だった。
電話を切ってすぐに伺うと、一度足回りをしっかり診たいので預からせてくださいとの事。無論そのつもりだったので、可愛らしい代車(ココアちゃん)を借りる事になった。
ジムニーのキーを社長さんに預けた時、
「ジムニーにはね、あるんですよ。そういう現象が・・・」
私「え!!そうなんですか?」
帰宅後、早速「ジムニー ハンドルの揺れ」でググってみたら・・・
www.4x4espoir.com
コレじゃん!!(*゚Д゚)
動画まである!!
お、同じや!!!(変な安心感w)
↑のサイトには症状から原因、応急対策、修理項目などが細かく出ていて、ホッとする反面、完治しないジムニー特有の「持病」なんだと知った。
私も難病患者だが、ジムニーも完治しにくい持病があるのか。。。
3台乗って、初めてのアクシデントだった。
母に話したら「そりゃ怖い!事故になる前に買い換えなさい!!」と言う。
母を病院に連れて行く時に乗るから、その時にガタガタしたらそりゃ怖いわ。
どうしたものか・・・と考えていたら、修理が終わったと言う連絡が来た。
社長さんも色々調べていて、↑のサイトも見ていた。
実際に直線道路で凸凹を踏んでガタガタ現象を「再現」し、それに合わせて調整して、その後、同じ道で試運転もして現象が起きなくなった事を確認して電話して来られた。
「まずはこれで様子を見て下さい!」
「解りました。又何かあったらすぐ持ってきます」
ジムニーが我が家に戻って来た。
その後、ハンドルガタガタ(ジャダー・シミー現象と言うらしい)は起きていない。
とは言え、完治したかどうかはわからない。
しかも、この現象、私が乗っている型が一番重症なんだそう。
マジか!(;´Д`)
加とさんの同僚さんで、新ジムニーに乗っている人に聞いてみたら、その人はすでに知っていて、これはもう仕方ないのだそう。
何という事でしょう!!(by加藤みどり)
9万キロ乗ったジムニーは3代目が初めて。経年劣化もあるんだろうね。
うーむ。。。
とりあえず、直線道路では凸凹に気をつけて・・・速度も控えて。。
高速道はそもそも私、走らないので(てゆうかもう、怖くて無理だ)。
そして、何より私がパニックにならない事だ。落ち着け、私。
買い換える事も考えつつ、
お気に入りの愛車の健康を我が身以上に大切に思う今日この頃。
ずっとそばにいたいよ。