かじかのつぶやき

絵を描き 写真を撮り 本を読み 猫と遊ぶ ときどきお仕事な日々。。。

人のために物語を紡ぐ、ということ。

前記事の朝ドラネタと被ってしまうんですがごめんなさい。

昨日はTwitterでその朝ドラの脚本について色々と意見交換が出来ました。

そして、脚本の大切さについて色々と考えさせられました。

映画にしてもテレビドラマにしても舞台にしても、
キャラクターの運命、物語の進行は脚本家のペン一本(というかキーボードパチパチかw)が全てを左右しているんだなって事を、朝ドラを観ていて痛感いたしました。

視聴者がどんだけ心を痛めても、それすら脚本家の「シナリオ通り」なんだなあ。
あの方は視聴者の心をどれだけ揺さぶり続けるのかなぁ。
そんな事を考えていたら「たかが絵空事のドラマ」に一喜一憂してる自分を笑ってしまいましたw
ああ、とは言っても「されど絵空事」だよねえ(笑)

釈然としない気持ちでTwitterのTLを眺めていたら、朝ドラの脚本批判をする長文の連続ツイートを見つけ、興味深く読ませて頂きました。
登場人物に感情移入し過ぎて、脚本の「ほころび」や「欠落」に見落としている自分に気づいた!ww
(私は批評家とか絶対無理ですね。なろうとも思ってないけれど、論理思考が出来ないから絶対無理だって事を再認識しましたよw)

意見交換してみたいと思い、そのツイート主さんにリプライを送ってみました。
その方の鋭い指摘と分析に、もぉね、一つひとつ「なるほど!そうか」と思うことばかり。

これで、強烈鬱展開だった朝ドラの終幕を、客観的視点で見納める事が出来そうだ!!
(今朝も思いっきり「死亡フラグ」立ってて朝から号泣な視聴者は多かった事でせう)

そのツイート主さんと、たまたまウルトラマンシリーズでまた盛り上がり、そこでまた脚本の大切さについて再度痛感する事になりました。

昭和40年代に放映されていたウルトラマンシリーズは、私も子供時代に胸躍らせて観ていました。

銀色のしなやかな体躯が伸び上がり、空を行く場面は憧れでしたねえ。(シュワッチ!)
当時の脚本の中には、とても子供番組とは思えない、シリアスで様々な問題を提起された作品も数多く、子供の私にはかなり難しい内容でしたが、充分過ぎるほどオトナになった(笑)今、DVDで鑑賞すると、そのストレートな問いかけにたじろいでしまいます。
そしてそれを完全に理解出来るほど私がオトナでは無い事も突きつけられます。

オキナワの事や差別問題など、小学生向けでありながらマイノリティーの視点で描かれ、何と重いテーマが込められていた事か・・・

比較しても意味が無いのかもしれませんが、現代のドラマのシナリオはそれに比べると大分「お手軽」になってきましたね。社会事情も昔と今では違ってきていますから、それが質の低下などとは決して思いませんが。

「伝える」という仕事は、本当に大切なんですよね。改めて思います。

物語をただ紡いでいくだけじゃなく、受け手の事も考えていかないと。
ドラマは送り手と受け手のキャッチボールみたいな部分もある様に思います。
今回の朝ドラも、多くの受け手(視聴者)から批判と声援が送られました。
送り手(制作側)はそれを無視してはならない。受け手がどういう気持ちでいるのかを丁寧にすくい上げて確かめる作業をおろそかにしていたら、ドラマ放映は成り立っていかないでしょう。
(なんせ視聴率が命、ですもんねー)

その上で、伝えたいメッセージを再確認して物語に乗せていく。
その作業が確実でしっかりした強さと整合性があれば、受け手の望まない結末が設定されていても、納得して受け入れる事が出来るはず。

・・・・
そんな事をつらつらと考えていたら、高校時代を思い出しました。
高校時代、私は学校で漫画を描いていました(お前、勉強しろよw)。
今もあるのかな、罫線のない、真っ白い無罫の大学ノート。
私はそれをまとめ買いし、そこに鉛筆描きで漫画をひねり出していたのです。
ストーリーは、記述するのも恐ろしくて恥ずかしいけれど、学園モノとSFモノ(赤面モノ)。

最初は自分が面白がって描いていただけでしたが、クラスメイトの目に留まってからは、彼等の為に描いていたような感じでした。
「読者」は何人いただろうか・・・女子が10人くらいいたかなぁ。
男子も数人が面白がって読んでくれました。

なんせ、お昼休みや自習時間を使って描くのですから、一日に描けるのはせいぜい2ページが限度です。
それに、2本立てだったし(笑)
しまいには、授業そっちのけで続きを描いていました。
最前列に座っていたのに、何て言う度胸でしょうか(怖)
おかげで成績が落ちること、落ちること・・・orz

そこまで熱中して描いていたのは、クラスメイトの「続きを描いて!」の言葉が常に私を追いかけていたから。
ある時は「読者」から猛然とクレームがついた事がありました。
学園モノとSFモノで、登場人物を別れさせたり、死なせたり、ってのを繰り入れた時でした。

「なんでこの2人が別れるんだよっ!くっつけとけよっ!」
「えええ!!ここで死んじゃうのはダメだよおお!」
と、ブーブー言われました(笑)

私はと言うと「なんだよ。アタシが作者なんだからアタシがどういう話描こうと勝手だろうが。いいじゃん別にさぁ。たかが漫画なんだし」
・・・と、心の中でつぶやいておりました(笑)口には出しませんよw

そしたら、彼等は読んでくれなくなった(汗)
「つまんないもん。別れちゃったし」
「死んじゃったらもう読む気しない」

えっ・・・(・_・;)

そこで初めて、
自分の気まぐれで描いていた、落書きレベルの下手くそな鉛筆漫画が、描き手のモノだけではなくなっている事に気づいたのでした。

それからは、少し時間をかけて、
キャラクターがココでこういう事を言ったら、読み手はどう思うかな?
という事を考えてから漫画を描くようになりました。

純粋で優しい私の「読者」たちは、今まで以上に面白がったり、展開を喜んだりしてくれる様になりました。

やっぱり、誰かに喜ばれるものを描く方が気持ちいいもんですね。
一方で、喜び方ってのも人によって様々だから、
(AというキャラとBというキャラが結ばれて欲しいと思う子がいるかと思えば、Cキャラとくっつけたいって思う子もいるし)
その為に新たにDというキャラを投入したり・・・

それまで自分1人のものだった漫画が、読んでくれる友人の為に描く事で、益々モチベーションが上がりました↑↑↑↑↑
が、成績は下がりました↓↓↓↓↓↓↓・・・

ドラマの脚本も、基本は視る人の為にあると思います。
最終回で誰もが納得する終わり方が出来たら、その人は本当に才能溢れる方でしょう。
そうなるのは本当に難しいと思うけど。

脚本家さんが自分の世界観を持つ事は大事だと思います。
受け手の反応に過敏になってしまい、物語がコロコロ変わったり、ありきたりなメデタシメデタシになってはいかんと思います。

重さと軽さのバランスを取るのが難しいやねえ。
最後は観た人が、
「これを観て良かった」という気持ちになれる様に。

それが一番なのだなって、今だから余計にそう思えました。